3/31 信濃毎日新聞(長野県の地方紙)の社説が下記のとおりだ。・・web版より引用
今まさに新元号が発表される直前である。いいとか悪いとか、思想的なことも言うつもりはない。ちょっと(大いに)気になったところなので、ここに書き留めておきたい。気になった部分は赤字の部分2か所(特に下線部)である。人それぞれ、言論の自由ではあるが・・。そして今、新たな元号が発表された。平成から「令和」の時代が始まる。
記(以下社説)
新元号の発表 存在理由を見つめ直して
天皇陛下の退位と新天皇の即位を1カ月後に控え、政府はあす、新たな元号を発表する。
元号は暮らしに密接に関係する。国民の関心は高い。
元号が今も使われている国は日本だけだ。元号とは何か、なぜ存在するのか。改めて考えたい。
元号法はこの二つの条文と、付則で成り立つ。元号が存在する法的な理由である。
成立は1979年。それまでの約30年間は明確な根拠がなく、昭和は慣習にすぎなかった。明治憲法下で元号の制定手続きを定めていた旧皇室典範などが、47年に廃止されたためだ。
元号は紀元前の中国・前漢時代に国家統治のイデオロギーとして採用されたのが始まりだ。日本でも天皇が時間を支配するシンボルとして採用されたという。7世紀半ばの「大化」以降に使われ、新元号は248番目になる。
歴史上の権力者は、天皇の「権威」を統治の安定のために利用してきた。象徴天皇制の導入後も、天皇の巡幸など国事行為の枠を超えて公的行為が拡大してきた背景に、政権のそうした思惑があることは否定できない。
元号はその象徴でもあった。
<目的はっきりせず>
吉田茂内閣は旧皇室典範の廃止を控えた46年、元号法案を閣議決定した後、連合国軍総司令部(GHQ)の反対で撤回している。天皇の「大権」への回帰につながると警戒されたためだ。
国内でも元号の継続に対する反対論が存在していた。日本学術会議は50年5月、衆参両院議長と首相に、元号の廃止と西暦の採用を申し入れている。
「日本が新しく民主国家として発足した現在では、元号を維持することは意味がなく、民主国家の観念にもふさわしくない」などを理由として挙げている。
元号の論議は天皇制の是非にも波及する。保革対立が激化した時代、歴代政権はこれをタブー視して、元号は慣習の状態が長年続くことになった。
元号法案が検討されるようになったのは、75年3月の内閣法制局の国会答弁がきっかけだ。「陛下に万が一のことがあれば昭和という元号が消え、(元号の)空白の時代が始まる」と述べている。
保守系文化人らでつくる「日本を守る会」(現在の日本会議の源流)が母体となり、元号法制化を求める運動が全国に広がった。大平正芳内閣が法案を閣議決定したのは79年2月だ。
社会、共産両党は天皇制の復活につながると反対したものの、6月に元号法は成立している。
元号法には目的が書かれていない。当時の総務長官は法案の趣旨説明で「国民の日常生活において長年使用され、広く国民の間に定着しており、大多数の国民が存続を希望している」と述べている。
政府は天皇制の本質論と元号を切り離して、国民にあった空気のような慣習に元号の存在意義を理屈づけたといえる。議論はその後も深まらなかった。
<国民と歩めるのか>
憲法学者の故奥平康弘さんは2011年12月の本紙評論で「国際交流、情報機器の発達など、日本国民をとり囲む環境変化に元号制は適合的でなくなる日が必ず来る」と指摘。その上で「(議論は)象徴天皇制の本質論に及ばざるを得ない。日本人はこうした究極の論議を避けっぱなしでいいのだろうか」と疑問を投げ掛けた。
共同通信社が1月に実施した全国電話世論調査によると、普段の生活や仕事で元号と西暦のどちらを主に使いたいか、という質問の回答は「両方を使いたい」が40%、西暦35%、元号24%だった。
国民は元号をある程度受け入れてきたといえる。ただし、外国人の増加などの理由で、改元を機に公文書の年月日を元号だけの表示から、西暦併記に変える自治体も増える見通しだ。免許証にも今月から西暦併記が採り入れられた。慣行は徐々に変わりつつある。
元号を継続していくとすれば、主権者である国民が納得できる形で元号が選ばれることが必要だ。
政府は、ほぼ前回踏襲の形で新元号を決定するという。
それなのに前回の選考過程を記した公文書は非公開のままだ。有識者懇談会に複数の案を示してから閣議決定後に発表するまでは、2時間程度しかない。情報の公開を嫌った徹底した秘密主義がそこにはある。
政府が一方的に決める改元の手続きは、主権の在する国民の総意に基づく象徴天皇制の趣旨に合っているのか疑問だ。
元号がなぜ存在し、政府が決めているのか―。国民は元号が持つ本質的な意味を見つめ直し、将来のあり方を考える必要がある。
(3月31日)