初めて立ったとLINEに孫の写真が届く。

諺の「這えば立て立てば歩めの親心」を伝えたが娘はピントこないようだった(笑) 。
意味的にはどの辞書をみてもだいたいこんなところだろうか。
デジタル大辞典:子供の一日でも早い成長を待ち望む親の心をいう言葉。
漢字ペディア:子どもの一日でも早い成長を待ち願う親心のたとえ。
会話で使えることわざ辞典:子供の成長をじっと見守る両親の心にたとえる。
ところが、伝えるにあた念のためググっていたら、なんとこれには続きがあるとか。
どうもその後に「わが身に積もる老いも忘れて」が続くらしい。続きがあるとは・・・娘のことを笑えない。知ったかぶりした己を恥じる。
しかも、元の歌?には親心の文字がないことがわかった。
元の歌?は「井上河州公の御吟に、はへばたて たてば歩めと 思ふにぞ 我身につもる 老をわするる」[俳・類柑子-上] があり、詠み手は井上正任(常陸笠間藩主のち美濃郡上藩主。元禄6年(1693)の1年間第9代八幡城主を務めた方だそうだ。このデータベースによれば原文に「親心」の文字はない。
「はへばたて たてば歩めと 思ふにぞ 我身につもる 老をわするる」
ん~どこから「親心」が出てきたのだろう。親心は親心と思うが、老人(ドラパパ)から自分の子の成長、それこそ出生・ハイハイから学校生活、会社生活、結婚、出産、子育てをいつも気にしていたことを赤ん坊に凝縮している歌のようにも思えてならない。
こちらの非常勤講師の方は私とちょっと似た捉え方、老人側から赤ん坊をみた歌とも考えられるのではと、解明を求める記事を書かれていた。
こちらの仏教教師の方は、今日の仏語としての「恩」の説明に使われている。親への恩までとは私はちょっと思えないが(^^;
親鸞聖人の言葉とするサイトもあったが・・どうなんだろう?
また、次のお坊さんの話の中にこんなフレーズがありました。考えさせられます。
「這(は)えば立て立てば歩めの親心」。子の成長を目を細めてあたたかく見守っているやさしい親心が表されています。しかし、あるご法話で、「這えば立て立てば歩めの親のエゴ」と聞かせていただいたことで、少し見方がかわりました。
親鸞聖人の言葉かどうかは私にはわからないけれど、仏教、特に浄土真宗系ではよくとりあげらている言葉でもあるようだ。
ググッているともっとはっきりと親心はエゴと断定する方もいた。
しかし・・親心=エゴなんだろうか。そうとも思うしネガティブなエゴとはちょっと違うような気もする。そこに愛はあるんか?とはどこかのCM文句だが、そこにエゴはあるんか?とも聞いてみたい。いずれにせよ奥が深そうだ。
これ以上は思うて詮無き事は思わずかな(^^; いい解釈があれば教えてください。
細かなことが気になる親父 記