細かなことが気になる親父の備忘録

インスタントラーメン袋と日常で気になった細かなことを書き留めていきます。

御水銭(餞)とは何か ドラパパようやく耳従うの境地に?

「御水銭(餞)とは何か」これも私の中では忘れた夏休みの宿題の一つでした。
やや長文ですが、備忘録としてまとめてみました。

私の菩提寺曹洞宗)でお盆の時期に行われる「大施食会」法要(施食会については後に解説あり)。戦没者法要も同日行われ参加する際にはいくばくかのお金を包むことになります。

受付で「表書き」は何と書いたら良いかと聞くと昔からの役員が「おみずせん」と言います。また「せん」はお金ではなく食偏とも教えてくれています。もちろん聞かずに一般的な「御布施」と書いている方も多いです。葬儀屋さんのHPでも「御布施」が殆ど。

私も以前は家の年寄りに聞いていたので「御水餞」と書いていたのですが、ここ数年は意味もわからず書くことに抵抗を感じ「御布施」と書いていました。
そしてこの「御水銭(餞)」について少し調べてみることに・・。
しばらく検索結果にお付き合いください。

最初はすぐわかるかなと色々検索していたのですが、ところがどっこい全く意味あるものにヒットしません。まず単純に「水銭」で検索すると唯一ヒットするのがweblio辞書

水銭 読み方:みずせん 六銭。〔関西〕

とありますが意味不明。六銭とひくと、六文銭 ・ 1912年以前の中国、および1953年末以前の日本などで使われていた、1文相当の銭貨が6つあるようすのこと。 日本における仏葬の副葬品である冥銭のことのようです。

あとは最近提唱されている「溶ける紙・水」でできた硬貨を「水銭」と呼んでいますが
こちらは関係ないので省略。

画像では、浅間神社の手水舎に設置された「御水銭」箱の写真

f:id:dorapapa96:20220128104949p:plain

https://4travel.jp/travelogue/10991933 より

さらに調べているとある方のブログ記事に出会いました。栃木県内のお寺の知人の墓地を御参りに行ったところ「おみずせん」を請求されたとの内容。
https://euphonykei.exblog.jp/22988352/ より

さらにはヤフーの知恵袋の回答の中にこんな回答が・・
地域は不明ですが「普通は」と書くくらいなので定着しているのでしょう。

Qお彼岸でお墓参りに行くのですがお寺さんにお塔婆お願いしている・・
Aお布施でも良いのですが、普通は「お水銭」とします。
ただし、地域性もありますので、違う書き方のところもあります。

そしてさらにググっていてヒットした「高庵寺」ブログでは
http://www.kouanji.jp/sub914.htm より

一般的には、お盆のときにお持ちするお金です。
高庵寺にお盆にお持ち下さる方は「水銭」が一番多く、あとは「お布施」「盆供」の表書きです。

とありました。なんと「水銭」が使われていました。住職がその意味合に触れられていないのが残念ですが、調べてみると高庵寺は栃木県足利市曹洞宗のお寺でした。ここでまた栃木県足利市が出てきました。

なんかここ信州とも関係あるのだろうか・・それとも曹洞宗独特のものだろうか。
そこで思い切って曹洞宗の曹洞禅ネットに問い合わせをしてみることにしました。
返事は速やかにそして丁寧なものでした。以下はその引用です。

曹洞宗の各寺院で行なわれる施食会法要は、ご先祖さま方をはじめ、有縁無縁の三界の万霊に飲食(おんじき)を施し供養する法要です。
檀信徒の皆さまが法要に際して、包みの表書きに「おみずせん」と書くとのことですが、曹洞宗として一般的に用いられる用語ではございません。推察するに「おみずせん」とは、ご供養する御霊に対して喉の渇きを癒やすお水をお供えするという意味が込められているものと思います。
「せん」に使う漢字ですが、実際の水に代えて幾ばくかの金銭を包みます、という意味に取れば「銭」となり、またお水を手向けますという意味で「餞」(はなむけ)と書くとも解釈できます。地域性もありますので、やはり出来れば機会を見つけて菩提寺のご住職にお尋ねになるのがよろしいかと存じます。
以上、今回の回答とさせていただきます。

 

つまり、曹洞宗では使わない言葉であるので、菩提寺の住職に聞いてとのことだった。
また行き詰ってしまった感はあるものの、明確に曹洞宗で一般的には使わない言葉ということは収穫でした。
ただ、菩提寺でも先の高庵寺でも使われているのは事実でありもやもやは解決しない。まさに迷路に入ってしまった感がありました。

そのまま約一年もやもやしている内に、なんと自分がお寺の役員を勤めることになっていました。この際思い切って住職に聞いてみようと思ったもののそれでもなかなか機会がない中、昨年暮れに住職とバッタリと合い立ち話をする機会を得ました。

代替わりしたお若い現住職ではありますが、800からの檀家の名前や家族構成まで把握している中々の御仁です。私のことも苗字ではなく名前で〇〇さんと呼んでくれます。

頭の回転もいいので、すぐに私の疑問については理解してくれました。
最初は「御布施」でいいんですよとも言っていましたが、私がお水餞について曹洞禅ネットに問い合わせしたことそしてその結果として住職に聞いていることを告げると、私も調べてみますと言ってくれたのです。
ありがたいものの、つまり即答はできなかったということでもあります。

年が明け、お寺の役員で新年会がありました。
住職とも杯を酌み交わすこともあり、なんらかの話があるかと期待していたのですが、残念ながら本件については何事もなかったように触れられることはありませんでした。

落胆したものの、ここにきてドラパパはある言葉に行き着きました。

『思うて詮なきことは思わず』 関牧翁 の言葉です。

細かなことが気になる親父の目から鱗が落ちた。私の中で何かが変わった。悟りと言っても良いかもしれません。

『気にして詮なきことは気にせず』とも言い換えることができるでしょう。

世の中、「そういうもの」「決まっているの」「理由などない」「意味などない」ことは多々あります。簿記の「借方」「貸方」もそのまま受け入れる話だし、あのお経の「羯諦羯諦ギャーテーギャーテー 波羅羯諦ハーラーギャーテー 波羅僧羯諦ハラソウギャーテー 菩提娑婆訶ボージーソワカー」の真言もこのまま受け入れるべきものとされています。

論語』の中に「子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。」とあります。

遅きに失した感もありますがようやく耳従うの境地になったドラパパでした。

おまけ:餞別の餞は 

f:id:dorapapa96:20220128105707p:plain

と書いてもよさそうです(^^;・・まだ悟りには遠いか~気にしてる(^^;
もしご存じの方がおられましたら是非コメントをお願いします。

2022.02.06 詮なきことも気にする親父記